365日坊主

つみあがってきた。

子供にネットを使わせるか否か

ネットを使わせない、フィルタリングをかけるということは短期的にはすごく有効です。


1年、2年は温室で遊ばせることにより危険と遭遇する可能性はかなり低くなります。




しかし、10年20年という長期的に考えた場合、その害は計り知れません。

子供時代ずーっと温室の中の無菌室で育てられ、いざ大人になってまったくネットリテラシーがないままネットを使ったらどうなるか……。
想像するだけでも怖いです。



もちろん家庭の教育方針は様々です。
子供を温室の中で育てるもよし、太陽の下でのびのびと遊ばせるもよし。
それはあなたの自由です。




ただ、私は「危険だから」という理由で子供を遠ざけたりは絶対にしません。

私は、子供に危険をまったく経験させず、何も分からないまま大人にするという教育はしません。



私は、熱いヤカンが危ないからと子供を遠ざけたりはしません。

ちゃんとヤカンに触らせて「熱い」ということを経験させます。

その後で「これは、熱いから気をつけようね」と諭します。





私には「危ないから経験させない」という選択肢はありません。
「自己判断」という能力を子供から奪うことは私にはできません。






子供から
   学習の機会を
       奪わないでください
  1. 2008/02/21(木) 12:12:12|
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PTAのネット教育をどうするか

子供をネットから遠ざけようとする運動がブームになっているようです。

小学生とパソコン・携帯!によると

”パソコン・携帯では
 メール・ネットの交流で、
 人間関係において誤解や行き違いが起きやすい。
 それがイジメに繋がり、犯罪にまで及ぶケースもある。”

だから、特にまだ子供の小学生には
”パソコン・携帯のメール・ネット使用は悪影響だ”
ということで、↑の
「小学生がパソコン・携帯のネットを使用するのは
 いけないことだ」
と授業が締めくくられた。
とある。


このようにネットを子供から排除するのも、いつの時代も同じです

テレビができたときも「テレビは危険だ」と子供から排除して

ゲームが出てきたときも「ゲームは危険だ」と子供から遠ざけました。

この傾向は「PTAの典型的行動パターン」として長年引き継がれています。

新しいものは「肯定」するより「否定」するほうがリスクが少ないので、親や教師がよく使うパターンです。
新しいものに対して彼らが言及する場合はまず否定から入ります。
そうすればどちらに転んでも、あまり指摘されません。
彼らなりの知恵と言えるでしょう。

そして彼らは「そのこと」に対して、大した知識を持っていません。

危険だからというなら包丁も危ないから子供には使わせてはいけませんね。
料理を教えるなんてもってのほか。
自転車も転んだり、遠出したりする可能性があるので使わせてはいけませんね。
風呂もおぼれてしまうかもしれないので子供には使わせてはいけませんね。

彼らは99.9%のメリットより、0.1%のデメリットを強調します。
そして多くの人がそのテクニックを見破れません。
親は子供にイメージを植え付けます。
親もまたテレビなどでイメージを植え付けられます。

実際にはネットを使ったことの無い人々が「ネットは怖い」という漠然なイメージだけで動いています。
ネットを使いこなしている人から見れば滑稽のほかありません。

このような「イメージで動いている人々」に口を出してもしょうがありません。
彼らは【正論】なんかより【自分の中の漠然としたイメージ】のほうを優先するからです。

どんなにネットが便利で、安全だということをデータで示しても無駄です。
彼らの頭の中にある「ネットは危険」という刷り込みを直すことが先決です。


すると『子供たちのネット教育』なんかより、『ネットが怖いと思い込んでいる大人たちのネット教育』のほうが重要だと分かります。






そこで『ネットに対する間違った知識をもった大人たちの教育』をどうするべきか

みなさんの意見をお聞かせください。







(そしてこの記事を書くきっかけとなったYour opinion?を書いていただいた酒茶漬けさんに感謝いたします。)
  1. 2008/02/20(水) 06:07:44|
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使い方を特定しない

教育現場の備品は、使い方を特定しないこと。

そして、特定して理想化してしまわないこと。

自由に使い方を模索してもらうのが重要。



ナイジェリアの小学生が寄付されたパソコンでアダルトサイトを見ていたっていうニュースもパソコンの使い方を想定して配布したのが問題。
もっと自由に使わせればいい。
こう使ってほしいと考えても、実際にそのとおりに使ってもらえることは少ない。

コンピュータで勉強してもらおうと配布するから、それから外れると問題視する。
何も考えず、無心で提供するのが真の教育。
遊び方は向こうが勝手に考えてくれる。
そしてあるとき我々をハッとさせてくれるのが子供たち。


期待するな。

管理しようとするな。

見返りを期待せずに、ただ面白いものを与えれば、面白くなるから。



  1. 2007/07/31(火) 12:33:42|
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通知表をもらった君たちへ

なぜ君は通知表を見ているんだい。

どうしてうつむく?

ほら、顔を上げて。




君は今、手に成績表を持っている。
顔を下げ、視線を下に移せばそれは見える。
君はそれを見て猛烈に憂鬱になっている。

果たしてそれは何の意味があるのかね?

もしかして君は、彼らと同じ土俵に立っていると勘違いしているんじゃないのか。
だとしたらそれは大きな間違いだ。
成績という1次元の世界に落としこめられたものをすべてと思っているのではないのか?

断言しよう。
あなたの世界観は間違っている。
人間を計るモノサシというのは、もっともっと多次元的だからだ。


君の成績が非常に悪いことは、とてもよく分かった。
じゃあ原因を考えたことがあるだろうか?
君のことだから「つまらない」とか「嫌いだから」とか「向いてないから」とかで済ましてるんじゃないのかね。
我々はそれを思考停止と呼んでいる。
君があきらめてどうする?
それでまた、テスト前にちょっと努力して、テスト後に「もっと勉強しておけばよかった」と悔やむのだろう?
何度同じことを繰り返せば気が済むんだ。
君はそこに向いてないんだ。
何をしたって無駄だ。
「努力は報われる」という幻想に惑わされてはならない。

向いてないと分かったなら、別の方向を向くんだ。
君の向いている方向に歩き出すんだ。
1歩、また1歩、明後日には3歩だ。

君の考えは分かっている。
ここまで読んでも、君は成績に固執し続けるとね。
ほら、図星だろ?
君は心の鎖に縛られてるんだ。
そうだろ?
だからこの文を読んでも、君は絶対に行動を起こせない。

そりゃそうだ。
小さいころから徐々に縛り付けてきた鎖だもの。
そう簡単にはちぎれない。

ところがね、この世界にはその鎖すら見えない人もいる。
ここまで読んでどうだろう。
「鎖」の存在に気づいただろうか?
ここでポンと膝を叩く人と、「は? クサリ? 意味がわからない」と気づかない人の2種類に分かれる。
その鎖が見えない人は、2重の鎖に囚われている。
鎖に縛られていることと、それに気づかないという縛り。


い い か げ ん 成 績 か ら 目 を 離 せ 。

現実に目を向けろ。

たしかに君の言い分も分かる。
成績にしがみ付きたいんだろ?
そのほうが楽だし、安心だから。
成績に執着してれば先生もいい目で見てくれるし、将来も安泰だということもささやいて来る。

それにしがみ付いている限り君は永遠に独り立ちできないぞ。
周りと同じ方向を向いて安心しているだけだ。

君は成績が非常に悪い。
それは周知の事実だ。
それを受け止めろ。

わざわざ向こうの土俵に立つことはない。
違う方向を向いて、進みたい方向に進めばいい。

もう君はこの世の人間じゃないんだよ。
Aという世界から離れてSという世界にいる。
そこで君は猛烈な成長を遂げた。
そしてAの世界のモノサシで君を測った。
それが今、君が手にしている通知表だ。

例えるなら、周りの人間が魚なんだ。
そして君は人間。
その世界では、いかに早く泳ぐかがモノサシとなっている。
何度も言うようだが、残念ながら、君はビリだ。
周りの魚たちは君をみて「バカ」だと「落ちこぼれ」だのピーチクパーチク叫んでいる。
その評価を君は真に受けるか?
言葉のあやがある言い方だけど、君は違う世界に住んでいる。
君の世界ではなにがモノサシなのかは分からない。
ただ、ここでは「山を登ること」だと表現しよう。
君がいくら早く山を登っても、周りの魚たちは「それがどうした」「それに何の意味がある?」と叫んでくる。
魚は魚のモノサシで君を測ろうとする。かたくなにね。

ここで周りの魚を君と同じ風貌にする。
そしてモノサシも現代に置き換える。
すると今の世界になる。

ひとつ困ったのは住んでいる世界によらず外見が同じだということ。
A世界に住んでいても人間の姿。
B世界に住んでいても人間の姿。
C世界に住んでいても人間の姿。
だからときに君は勘違いしてしまう。
「すべての人間は同じ世界に住んでいる」と。

もはや君は周りと違う世界に住んでいるんだ。
何を言われようとも周りで魚が騒いでいるに過ぎない。
でも外見が同じだから、ついそのモノサシを真に受けて暗くなる。

まず君が行動すべきなのは、自分がどの世界に住んでいるかだ。
それを見極めないうちは他人の評価を気にする必要はない。
Zという世界に住んでいるのにAという世界の評価を気にする。そんな馬鹿げたことはこれっきりにしてくれ。


そこで手に持っている成績表を見てくれ。
もう以前の君とは違うはずだ。
どんな数字が並んでいようとも「向こうの世界から自分はこう見えるのかー」と気軽に直視できる。
そんな君なんだよ。



  1. 2007/07/20(金) 20:47:22|
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教育1.0へようこそ

 「これを見てくれよボブ」
ジョンは一枚の写真を差し出した。
それは同じ格好をして整列している子供たち写真だった。
 「なんだいこれは? とても奇妙な写真だけど」
ボブは写真をまじまじと眺めながら答えた。
 「なんだと思う?」
ジョンは不敵な笑みを浮かべている。
 「これは2010年ごろの日本の学校だ」
 「学校!? これが? 大昔の軍隊かと思った」
ボブは座りなおして写真の細部を観察した。
 「この前、部屋を整理したら昔の資料が出てきたんだ。僕もこれが学校だなんて信じられなかったよ」
 「いや」
しばらくの沈黙の後、息をするのを思い出したかのようにボブは口を開いた。
 「まさか」
ボブは息を呑む。
 「信じられない」
目の前に不可解な問題が現れたかのような疑いの顔を向けるボブに向かってジョンは口を開いた。
 「まだ続きがあるんだ」
ジョンはもったいつけるように右手の人差し指を立てた。
 「文献によると学年やクラス――活動としての単位――という概念が存在し、出席番号というものがあり、ときには番号で呼ばれることもあるんだ。1年3組23番、のようにね」
 「それは……まことに持って……ひどいもんだな」
 「ここまで文献を読んで、これはちょっとしたホラーなんじゃないかと思ったね」
 「これ、今やったらどうなるかな? 間違いなく捕まるぜ」
 「こんなことも当時は平然と行われていたから歴史というのは面白い」
ジョンはコーヒーを一口飲むと、写真をポケットにしまった。
ポケットに向かった手はそのまま鞄を開き、一冊の本を二人の前に置いた。
 「これが昨日整理して見つけた文献だ」
楽しむような手つきでジョンは本を開く。
 「これがまたすごいんだ。――子供たちは毎日同じ時間に登校しなくてはならないし、下校時刻まで学校を出てはいけないんだ」
 「なんだ……その、軟禁行為みたいなことを当時はしていたっていうことか?」
 「そういうことになる」
ボブは大きなため息をついた。
 「想像できないな。理解の域を超えてる」
 「僕はこの本を読み通して、悪寒を覚えたよ。これは最高のホラーだった」
喋りながらもジョンはページを進めていく。
時折、面白い写真があるとボブに見せて異世界を共有した。
するとジョンはふと手を止めて、ある写真を指差した。
 「これはなんだと思う?」
子供が小さな机をきっちり並べて同じ方向を向いている。
写真のキャプションはジョンが手で隠しているので読めない。
子供たちの視線の先には大人らしき人が立っている。
 「これは……? なにかの罰を受けている生徒かな? とても非道だ」
ジョンはニヤリと笑ってかっこう付けて喋り出した。
 「驚かないで聞いて欲しいんだ。これは処罰でも罰ゲームでもないし、虐待しているところでもない。怪しい宗教集団でもなければ、拷問や体罰の類でもない。……これが普段の授業風景なんだよ!」
驚きで声も出ないボブを尻目に喋り続けるジョン。
 「毎日、同じ時間に学校にこなければならない上に、こんな非道な行為がずうっと続くんだ。いったい当時の子供たちはどんな生活だったのか想像もつかない」
ボブは何回か口をパクパクさせたあと声を発した。
 「まさに――地獄だ」
さらにボブは声を張り上げた。
 「このときの国はどうかしていたのか? 子供たちはなにも抗議しなかったのか? 親はなにも行動しなかったのか?」
 「当時の人たちはこれを『当たり前のこと』として捕らえていたらしい。文献にはそう書いてある」
ボブは地獄の底を見たような表情をして
 「これじゃあ刑務所となんにも変わらないじゃないか」
とつぶやいた。
衝撃的な写真や文章の数々。さまざまな歴史から驚きが生まれる。
ボブはジョンの話を聞き、今までとは想像も付かないほどの不思議さを味わった。
 「校舎という監獄に閉じ込めて、看守の言うことを良く聞く人間が優遇され、気に食わない人間を迫害する。なんで……どうして、当時はこんなことがまかり通ってたのか不思議だよ」
 「それもまた当時の人たちは『疑問にも思わなかった』んだな。そういう環境の真っ只中にいると、そういう思考パターンが出来上がってしまうのかもしれない」
ジョンはそのページの脚注に目を付け
 「さらに疑問を持った人間はことごとく排除されていく環境なんだ。そういう異端児を廃棄するシステムがものすごい完成度で構築されていたらしい」
 「しかも日本だろ? 自由だと聞いていた日本でそんなシステムがまかり通っていたなんて……やっぱり信じられない」
 「僕だって昨日の夜に読んだときは目を疑ったさ。怖いもの見たさで読破しちゃったけど」
ジョンはさらにページめくる。
 「さらにすごいのが――」
 「もういい。もういい!」
ボブは耳をふさいだ。これ以上、ホラーを味わいたくなかったし、夢に出てくるぐらいリアルな話から逃げたかった。
 「これは……怖すぎる。もし当時に生まれていたらと考えると夜も眠れなくなる」
 「こんな教育が2040年ごろまで続くんだから。長ーい地獄だ。しかも週に5日も学校に行かなくてはならないし、授業というものがあり――大勢の生徒を一堂に集めて知識の一方的な伝達――をするらしい。その中で教える内容は決まっていて、それ以外の勉強は認められない。一切だ」
 「……当時の子供たちは幸せだったのだろうか。ここまで人権を無視されて」
 「まだあるよ。授業中に会話は許されないし、立ち歩くなんてもってのほか。トイレに行くにも許可が必要なんだ。服装や頭髪まで制限するという徹底ぶりだ」
 「うわぁ……。いたたまれないな」
ボブはまるで自分が殴られたかのように顔をしかめて言った。
 「どうだい、ボブ。教育史ってのもなかなか奥深いだろ」
 「ああ、ちょっと怖いけどね」
 「さらに社会全体が学歴を重視していた時代だから、そういう教育の場から逃げることはとても困難らしい。逃げ道も奪う非道さとアイディアがすごい」
 「それを実行したやつらもすごいよ。人間じゃないな」
ジョンは本を閉じて鞄にしまい、ボブを見つめた。
 「まだまだ昔の教育を見れば、身の毛もよだつような発見があるかもな」



この対談は月刊アソシエーション(2077年4月〜6月号)に掲載されたものを加筆・修正したものです。
日本語訳にあたって携わったすべての人に感謝します。 




  1. 2007/04/22(日) 00:54:24|
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学校の照明

学校の照明ほどつまらないものはありません。

天井にただ配置された蛍光灯。

一定の照度を保つように設計され、対費用効果だけは最高です。



でもそれは部屋を一定の明るさに保つだけでなんの効果もありません。
天井から下をベタっと照らすだけ。
教室というのは照明で雰囲気はがらりと変わります。

上からの直接照明ではとてもクリエイティブな環境とは言えません。
なにより人は明るいと緊張状態に陥ります。
脳をリラックスさせ創造的な状態にするには照明にこだわらないといけません。


なぜ学校の照明はひどいのか。

それは学校環境衛生の基準値として最低照度が決められているからです。
この最低照度を満たすためだけに照明は設置されます。
これでは照明に凝ることができません。
どんなに素晴らしい照明を施したとしても法律に触れればそれでアウトです。
これにより日本全国の学校の照明はつまらないものになったのです。


求めるべき照明とは

学校に求められる照明は「多様性」です。
現在の学校にある照明は「上からの蛍光灯」だけ。
照明はTPOによって生徒自らが選択できるのが望ましいのです。
それも直接照明だけでなく間接照明や、手元をピンポイントに照らすライトなど幅広く。
そのときの気分や環境に合わせて自由にコーディネートされるべきなのです。



■参考になりそうなもの

あなたの知らない照明術 : akiyan.com
【楽天市場】[間接照明のテクニック]:フォニック・フープ
あかりの演出テクニック
住まい用の照明・電球




まとめ

照明を大切に

  1. 2007/04/04(水) 20:18:35|
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頭のいい学校にいこう

日本の教育機関は学校しかありません。

教育を受けようと思ったら「学校」しか選択肢がありません。

誰もが学校というぬるま湯に漬かり続けるしかないのです。



おなじ漬かるなら、良い物のほうがいい。
学校というのは人を生み出す土壌です。
魚にとっての水のようなもの。
いい場所にいれば自分を高めることが容易になる。

人を殺すか生かすかは学校に依存されます。
強かれ弱かれ、学校は人に多大な影響があることは否定できません。

それでは「いい学校」とは何なのか。
それを考えるために「わるい学校」というのを見てみましょう。
あなたはすでに悪い学校を見ているはずです。
歩けば悪い学校にぶつかります。
悪い学校の定義とは「人を見ず、学校の勉強を基にした学力しか見ない学校」です。

「面接」のない学校。これは論外です。
こんな馬鹿学校にはこっちから願い下げです。
書類選考とペーパーテストだけで人を判断するようなぶっ飛んだ学校に入ったら人生をダメにします。
間違っても入学してはいけません。

「個性を重視する」ことを掲げている学校。これもいけません。
こういった学校はたいてい個性を重視していません。
そのように公言したほうが学生が集まるだろうという浅ましい考えを持つ学校は馬鹿です。
そもそも個性を重視するのは当たり前であり、口に出すことじゃありません。
「うちの学校は個性を重視するよ」ってのは「うちの学校には空気があるよ」と同義語です。
あって当たり前のことをわざわざ言うなんて愚の骨頂です。

「つまらない試験」を実施する学校。何を考えているのでしょう。
せっかく人を見るチャンスなのに、学力の試験だけ。
ちょっと流行に乗って「小論文」も取り入れてみたり。
そんな右へならえの精神を未だに持つ学校。こんな馬鹿学校は近所にたくさんあります。
子供じゃないんだから周りの学校と同じ試験をしてどうするの。
そんなので何が見れるの? すこしはその頭脳を働かせなよ。
その脳みそは飾りじゃないんだからさ。


「わるい学校」を端的に表すならば「頭の悪い」学校です。
特徴を言うならば「施設のよさばかり強調する学校」(ハードしか自慢することがない)、「学術試験で入学者を選別する学校」、「周りと見分けがつかない学校」などです。
過去の栄光の上にあぐらをかいて、まったく進歩しようとしないのです。
社会も、人も、日々移り変わっているというのに変わろうとしない学校です。
知っている学校を何個か挙げてみてください。
何個か「わるい学校」に該当するんじゃないですか。

人生は楽しく生きたい。
だから楽しい学校に行って欲しい。
残念ながら日本は高校・大学と有料です。
入学するこっちはお客さんなんです。
金を払って馬鹿な学校に行かないでください。

なにか得るものがあるところに行って。

人生を変えるような出会いがあるようなことろに行って。

最高のサービスを、最高の学校で。




まとめ

頭のいい学校にいこう

  1. 2007/03/26(月) 23:02:19|
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存在が分からない単語

その国の言語には国民性が現れます。

思想も反映され、考え方の特徴も手に取れます。

特に単語にはそれが顕著です。



「不登校」という単語にも日本の思想を読み取ることができます。
これは「登校」という単語に「不」という接頭辞が付いた言葉です。
つまり登校が主で、不登校が従の関係を暗に表しています。

登校するのが当たり前で、登校しないのは特殊なんだという差別が含まれるのです。
言語による暗の差別についてはよくニュースでも取り上げられます。(子供・子どもの表記問題とか)

それにしても「不登校」という単語がなぜ存在するのが理解できない。
コーヒー派と紅茶派を「コーヒー派」「非コーヒー派」と呼ぶ人なんていません。
【うどん派・非うどん派】【パン派・非パン派】などのおかしさには気づくのに、なぜ不登校には誰も気づかないのでしょうか。

「登校・不登校」の新しい呼び名を考えてみました。
『集団依存学習』と『自主独立学習』です。
すこし長くなりましたが差別観念が消え、ポジティブな印象にはや代わりです。
登校児童は「集団依存児童」となり、不登校児童は「自主独立児童」と訳されます。

これで主従の関係から、お互いに独立した単語となり干渉しあうことがなくなれば幸いです。



まとめ

ネーミングしてみよう



クリックありがとうでした。ベリー感謝です(´∀`*)
  1. 2007/01/29(月) 21:45:48|
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教育2.0へようこそ

「教育2.0」というのを知っていますか?
「きょういく にいてんぜろ」と読みます。

これは既存の教育、つまり今の教育システムを「教育1.0」と呼んだときと対照に位置するシステムです。

教育1.0と教育2.0の違いを見比べてみると、まったく正反対なことに驚きです。
教育1.0の世界で生きていた人にとって教育2.0は奇特なものに見えるでしょう。
大人からみれば奇をてらった無秩序の世界に見えるかもしれません。
なぜならば教育1.0の世界になじみすぎてしまったから。
教育1.0の世界に長く住みすぎて教育1.0の思想が頭にこびり付くと、教育2.0を受け入れるのは困難です。

まず、教育1.0の世界での中学以下の教育は「小中学校」に独占されています。
ひとつの市場にひとつの会社しかないような状態です。
これはとても危険なシステムだということは一目瞭然です。
生徒は学校を選べないし、学校は独占という安心感から向上をやめ停滞を始める。

複数の学校があって、生徒はそれを自由に選べる。
これにより独占を防ぎ、活発な教育を保つのです。
教育2.0を紹介します」から引用すると
予算をどのように使うかがマスターの腕の見せ所です。
ここには最高の自由が許されていて、予算を100%使ってなにをしようが自由です。
それによりマスターの信念がそのまま学校になります。
(中略)
ただし、無茶苦茶にやると生徒は離れていきます。
なぜならば転校が自由だから。
駄目な学校からは生徒が離れていきます。
するとその学校は潰れます。
必然的に、悪い学校はなくなって、良い学校だけが残るシステムなのです。
こういう点ではマスターというのは「校長」ではなく「社長」に近い職業といえるでしょう。

このように教育2.0では人の動きが活発です。
生徒は常に「良い学校はないか」とアンテナを張り巡らします。
学校は「生徒に最高のサービスを提供しよう」と創意工夫を凝らします。

教育1.0では、こうは行きません。
生徒は自分に適した環境を求めず、自分の居場所を探すことをしません。
学校も努力して向上しなくても、生徒は逃げていかないのでダラダラと活動します。

教育1.0はとてもゆるいのです。
真剣にやっても、ダラダラやってもなにも変わりません。
すると必然的にダラダラした学校ばかりになります。

教育2.0はとても厳しいです。
だめな教育をすると生徒は逃げていきます。
簡素な書類手続きだけで30分もあれば転校が完了します。
それぞれの学校のマスター(学校の手入れ調整をする役職)はアイディアを競い、切磋琢磨して最高の学校を作り上げていくのです。
生徒同士だけでなく、学校同士でも向上し続ける環境は弱肉強食の世界です。



教育の環境だけでなく、内容も教育1.0はゆるいです。
決まった時間に、決まったことをすればよいのですから、馬鹿な生徒にとってはとても楽な環境です。
だんだん堕落していき自分で考え選択するという能力が退化します。
論理的な行動をしなくなり、「先生が言うことだから正しいのだろう」と考え、自分で考えることをしなくなります。
ただ、先生の言うことを聞いていれば優等生と言われるのでますます堕落していきます。

それに対して教育2.0はとても厳しい世界です。
決まった時間に、決まったことをするというルールはありません。
自由に、好きなように自分を高めることができます。
馬鹿な生徒にとっては地獄のような世界です。
自分で考えることができないので、自分の意見や信念を持ちません。
周りは夢や希望を持って自ら意欲的に学んでいるのに、自分だけポツンとなにもすることが見つからない……

逆に頭のいい生徒にとっては最高の環境です。
自分の信念・理念・美学にそって素直に行動できるのです。
学校は自分の行動を広げるために最大限の努力をしてくれます。
興味や関心、自分の夢に向かって突っ走れるのです。

前述で「馬鹿な生徒」と「頭のいい生徒」に分けて書きましたが、ではこの馬鹿な生徒は誰が生み出したのでしょうか。
それは教育1.0が生み出した生徒です。
教育1.0の世界にぬくぬくと浸っていれば馬鹿な生徒が簡単に出来上がります。
責任もない、自由もない。自分が高められないのは教師のせいだ、と責任を押し付けることもできます。

教育2.0はとても辛くて厳しいのです。
学校は「最高の環境」を生徒に提供します。
生徒は目の前にある最高の環境をどう使おうが自由。
自分を高める仕事は自分でやるのです。
他人に責任を押し付けることができません。

教育1.0は豪華客船の旅と言えます。
教育2.0は徒歩でジャングルを突き進むようなものです。

道を切り開く責任がのしかかります。
ただし、進む道は自由。
責任には自由が伴うのです。

人生の中で「責任の大きいほう」と「責任の小さいほう」を選択するときがあるかもしれません。
そこは「責任の大きいほう」を選択したほうが自由度が高いのです。

責任が大きいと自由に行動できない。
そういう人もいるかも知れません。
でも、それは間違っています。

責任が大きければ大きいほど自由になれるのです。


会社の平社員と社長を考えてみましょう。
平社員のほうが責任は少ないし、気楽です。
社長は会社の存続にかかわるため責任は重大です。
でも、どのように会社を運営するか、どのような方向性にするか「自由」があります。

人生でなにか選択するべきことがあったら責任の重大なほうを選びましょう。
なぜならば責任には自由が伴うからです。
自由というのは選択の自由。
可能性が広がります。
人生が楽しくなります。

もう一度言います。

責任には自由が伴います

責任が大きければ大きいほど、あなたは自由になれるのです。



教育2.0の世界へ、ようこそ。

  1. 2007/01/14(日) 09:39:33|
  2. きょういく論
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教育2.0を紹介します

教育2.0を見てきました。

ようすを少し紹介しますね。



まず、入学日について。
4月生まれから3月生まれまで12ヶ月の幅がありますので
生徒は6歳の誕生日が来たら自由に登校してよいことになっています。
登校時間は自由です。
朝に来ようが夜に来ようがかまいません。
ただ「週に3日以上は休むのが望ましい」というガイドラインはあるようです。
学年・クラスといった概念がないので番号で呼ばれることもありません。
生徒は学校に来て好きなフロアで過ごすのです。
学校にいる大人は、泊まり込みで手入れ調整を担う「マスター」
教えるのが目的の「ティーチャー」はいません。
生徒から求められたときだけ助言する「アドバイザー」が数人。
体調管理や保健相談の「ドクター」もいます。

生徒は学校に来てもいいし、来なくてもいい。
帰ってもいいし、帰らなくてもいい。
生徒が寝泊まりするのもかまいません。
シャワー室やバスタブも完備してあります。
キッチンもあるので友達同士でクッキングしてもいいのです。
学校のとなりには図書館があり、生徒はいくらでも本を借りることが出来ます。

もちろん生徒の転校も自由です。
自分に合う学校を探す旅に出る生徒もいます。
学校の設備投資はマスターに一任されています。

学校を出る時期は決まっていて18歳の誕生日に卒業です。卒業式こそありませんが、みんなから祝福を存分に受けます。

外部の人を自由に呼んでも構いません。
予算内であれば大学の教授を招くのもよいでしょう。
生徒の希望により宇宙飛行士を呼んで話を聞くのも面白いかもしれません。
すべてはマスターと生徒で話し合って予算の使い方を決めてください。
ピアノを買ってもいいし、最新式のパソコンを買うのも自由です。
地域住民から寄贈してもらったり、生徒が持ち込みで備品を増やすのも賢い方法といえるでしょう。

生徒は学校にお金を払いません。自分の投資にしっかりと計画することができるのです。
しかも、ある場合よっては生徒にお金が支給されることもあるのです。
それは交通費がかかる場合や、功績があった場合などです。
お金を払うのではなく、むしろもらえるというのは日本では考えにくいかもしれませんね。

学校によっては「カウンセラー」を置いたり、人事の自由もマスターには保障されます。
つまりマスターの個性がダイレクトに学校に反映されるのです。
それにより様々な学校が存在するのです。
自分に合う学校を探すために、放浪の旅に出る生徒がいるのも頷けます。

そういえば、学校にいる大人を言い忘れていました。
学校の警備を担当する「ファーザー」です。
彼らは日本で言う警察官のような役職です。
でも、制服を身にまとった怖そうな人たちではありません。
ジーパンにセーターというアットホームな服装で、笑顔がとても似合います。
不審者が学校に入ってきたら体を張って子供たちを守ります。
普段は、校舎に破損がないか見回ったり、用務をこなしています。
子供たちが「一緒にブランコ作ろうよ!」と誘ってくるならば、ファーザーは子供たちと一緒に木を切ったりして力仕事の手伝いをします。

学校には生徒数に応じた予算が毎年2回入ってきます。
なのでマスターは年に2回、国に生徒数を報告しなければなりません。
予算の使い道は、前述したとおり生徒との話し合いで決められます。
日本では「職員会議」という生徒が入り込めないスペースで勝手に決めてしまうので、ちょっと想像しにくいですね。
この辺も教育2.0の理念が生きていえるといえるでしょう。
学校を取り仕切るマスターも生徒と平等なのです。

さらにマスターには「校長」という名前は似合いません。
なぜならば「子供たちに最高のサービスを提供する」という理念の下に行動しているからです。
ただ事務をこなすのではなく、その自由もしっかりと保障されています。
学校をどのように運営するのかも一任されているのです。
予算の使い方によって学校ごとに個性が出てきます。
音楽機材やライブハウスなどを敷地内に構えた学校もあります。
体育館やスポーツ機材に予算を潤沢に使った学校も存在します。
予算をどのように使うかがマスターの腕の見せ所です。
ここには最高の自由が許されていて、予算を100%使ってなにをしようが自由です。
それによりマスターの信念がそのまま学校になります。
敷地や校舎を売り払って、インターネット上に学校を構えたマスターもいます。
予算をいっぱいに使って校舎をアスレチックのような忍者屋敷ともつかぬアバンギャルドな雰囲気を作り出したマスターもいます。

マスターというのはとても責任の重い仕事です。
そのかわり自由度は最高にあります。
責任には自由が伴います。

ただし、無茶苦茶にやると生徒は離れていきます。
なぜならば転校が自由だから。
駄目な学校からは生徒が離れていきます。
するとその学校は潰れます。
必然的に、悪い学校はなくなって、良い学校だけが残るシステムなのです。
こういう点ではマスターというのは「校長」ではなく「社長」に近い職業といえるでしょう。

次に学校の様子を紹介します。
校舎内を歩き回っていると6歳から18歳までの生徒が入り混じっています。
グループでなにかをしていたり、個人でなにかをやっている生徒もいます。
ペットのトリミングをする仕事に興味のある生徒のために、マスターがトリミングの先生を呼んで体験授業しているところもありました。

12歳の男の子が、6人ぐらいの6,7歳の子供たちと輪になって授業をしている光景も見られました。
逆に、15歳の子が18歳の子に教えている場面も。
彼らには年齢など「どうでもいいこと」なのでしょうね。




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  1. 2007/01/13(土) 20:59:35|
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