365日坊主

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リンカイ展 あとがき

「はじめに」

リンカイ展へようこそ。

リンカイ展を見た人も、見てない人も。
できるならばお客さんとして見たかった人も。
せっかくなのでポートフォリオに入れておきます。

両日とも天気に恵まれ、開催中さえも生き物のようにその中身は変容していきました。
そんな大規模でファンタスティックな展示に参加できたことをうれしく思います。
この刺激的なイヴェントに僕はワクワクする6か月を過ごすことができました。

そんなリンカイ展に愛をこめて。


ぬーど01




「長時間の拘束」

これほどまでに長い時間、展示によって拘束されたことがあっただろうか。
8月から半年間もやり続けるだなんて、今までじゃ想像もできなかった。
長くやることで見えてくることってなんだろう。

「リンカイ展からの変更点」
増沢に「全裸のゆうきが走り回ってる映像を、コラージュで埋め尽くした部屋でぐるぐる回そうぜ」と誘われたのが暑い暑い夏の日。
まさか一時の遊びが、2月の年度末発表会まで自分についてくるとは思わなかった。
脱ぐことから逃げられない状況ができた。今まで身体を張ったことなんてしたことがない大丈夫だろうか。
そんなこんなで始まった企画内企画ですが、遊びで始まった延長から、まさか自分をここまで悩ませるなんて誰が想像したか。
増沢はやりたいことをやるための言い訳として、論理武装を始めた。
僕にはまったく理解不能な行為だったが、アート界では常識的なルールらしいので黙っていた。
しかし、その余波が自分にも回ってきた。企画内企画書(内輪で見る企画書)を書く時に、絵コンテ、予算、スケジュールだけではダメだと言われた。
おお、なんという。内から湧き出る行動に、意味をつけ、言い訳しないといけないことを強要された。
そもそもこれまでの人生で論理武装なんてことはしてこなかったので、僕にはその意味を考えるだけでも暴力的であった。
けれども、今まで自分が触れたことのない文化だったのでやってみることにした。
それが以下の文章である。


------------------------------------------------------------------------------------------------------



「脱ぐということについて」

作品を通して僕が脱ぐということは、どういうことなんだろう。


僕はそもそも人が怖い。自分を強く見せるために脱ぐ。そういう一面もある。
脱ぐという行為は、自分にとって、威嚇なんだな。
だからどうしようもないときは脱ぐしかない。

オブラードを剥がすことによって、相手へ強いイメージを与えることができる。

そしてこれはシャイな自分への反逆だ。逆襲だ。
スイッチを壊して、メーターの振れ幅をふっきるための儀式だ。
自分はどこまでできるのかな。というチキンレース。
ビクビクしながら自分の限界を肌で感じる。

そして自分が男であるための再確認。
裸ならば、否が応でも、下を見れば男と言うことが分かる。




「脱ぐことで、得られること。気づいたこと。」

脱ぐということで、知ることはたくさんある。
人の弱さを知る。物陰の音にとても臆病になる。
裸であることよりも、脱ぐ瞬間のほうが遥かに緊張感がある。
だからこそ全身の知覚神経がフル活動することに、一歩進んだ世界が見えてくる。


全裸であるという非日常を使うことによって、脳に気持ちいい刺激が伝わる。
この興奮は自分への啓発的なドキドキ。
わかりやすく言うと創作のエネルギーを沸き起こしてくれる。


僕はときに全裸で外にいても、全裸ではないように振る舞う。
脳が全裸だと認知してないのだ。
恥ずかしい。超はずかしい。恥ずかしいからこそ、脳が急いでこの状況に慣れようとする。
そうやって必死に慣れようと脳が活発に動く刺激こそが、クリエイティブな精神にパワーをくれる。


やなせさんにとってのヌード写真は、自分自身を見失わないための行為だったのかな?
対象が何であれ、写真撮影には、そういう自己認識の働きがあるように思います。
だって、写真に写っちゃったんだから、認めないわけにはいかないもんね。

なんてことを言われたことがある。
僕は鏡が信用できない。左右反転してるから。
本当の自分を見るには、写真でしかありえない。

自分が自分であることを自分で認識するには、自分の写真を見るしかない。

だから、僕は自分の写真を見てると安心する。




自分がいる喜びから、さらに喜びとして脱ぐ。

それをみてさらに喜ぶ。

そういう安心と喜びの無限発生装置。





Eureka!

喜びの表現だ。

Eureka!

快感だ。

Eureka!

楽しんでるんだ。



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全然、論理武装になっていなかった。ただの決意表明じゃないか。
むしろ詩に近い文を増沢は受け入れてくれた。
彼の中では僕の限界値が「ここまでだ」と思ってくれたのだろう。(ありがたい。これを否定されていたら僕は立ち直れなかったかもしれない)
企画書を書いてからというもの、そういう意味付けをしていくプロセスが頭の中で勝手に出来上がっていった。
「なんで?」と「どうして?」をよく口にするようになったし、それができていない相手を馬鹿にするようになった。
やっかいなことに僕はこれを成長だと勘違いしていた。
馬鹿の一つ覚えで、意味付け・論理武装の文化を、感覚文化より上だと思い込んでいたのだ。
自己批判が「かっこいい」とさえ思っていた。
そして、この思想から抜け出すのには長い長い時間がかかることになる。

「好きを仕事にすると、どうなるか」

この作品の制作過程において(なんて言うと仰々しいが)僕は考えたことがある。
「好きを仕事にすると、どうなるか」というアートの道の入り口に立つ者が避けては通れない命題である。
アーティストなんてものは好きなことをやり続けて生きようとする“我儘”な生き物なんだから、貧乏だとか、苦しみだとかはあって当然の報いだ。
しかし、その答えに辿りつくのはある程度時間が必要だし、それが本当に好きなのかを見定める余裕も必要になってくる。
このリンカイ展の制作に携わって、その考えが正しいかを擬似検証する機会となった。これは嬉しい誤算だ。

ときに「脱ぐ」ということはなんだろう。
衣服を脱いで、何も身につけない状態になることである。
そんな単純で、大半の動物がしている簡単なことなのに、人間はその状態を保つ時間が異様に短い。
それがなぜなのかを突き止めるためには生物学、文化史、心理学からのアプローチが必要なので、やらない。
めんどくさいことは学者さんにやらせておいて、自分ができることは自分でやって体験してみよう。

体験にいたった経緯はなんだったのか。
僕は当時、写真に興味があってカメラを持っていた。
自室で風呂に入ろうと全裸になったとき、気まぐれでカメラを姿見に向けてシャッターを切ってみた。
初めて見る自分の正対した身体に、僕は興奮した。
「こいつはおもしろいぞ」
初めての体験は誰だって面白いはずである。
写真を志す者なら「セルフポートレート」なんぞ誰しも通る道だが、僕はそこに至るのがちょっと早すぎた。
偶然に偶然が重なった、たまたま生まれた「自分」への興味だったからだ。
ちょうど周りの風景を撮るのに飽きていたので、新たな被写体を見つけた僕は、幼い子供のようにはしゃいだ。

以上のような裸への導入があり、写真スタジオで撮ってみたり、外で撮ったりを繰り返していた。
そんなとき、スタジオでの撮影時にメイキングを撮るためにビデオカメラを持ち込んだ。
僕にちょっとした好奇心が生まれた。
「映像だとどうなるんだろう」
そのままスタジオを抜け出して、廊下、中庭などで撮影して遊んでいた。
まさか、そのとき撮った映像が半年後の自分に多大なる影響を与えるとは思いもよらずに。

僕はその映像を、渋谷にあるヘルハウスという空間(アーティストが集って、暮らしている部屋)に持ち込んだ。
そこで、増沢に撮った映像を見せた。
彼はとても興味を持ち編集させてくれと言いだした。
その後、彼はベトナムに行ってしまうので、どんどん撮影してくれと僕に頼んで、日本を飛びたってしまった。
彼に頼まれたのも後押しして、僕は食堂でたまたま誘った違う学科の女の子と撮影をした。
編集も特に考えず、絵コンテもなしに自由気ままに撮った。

そして夏休みが終わった。
増沢はベトナムから帰ってきて、言った。
「年度末の展示を一緒にやろう。ゆうきの映像をぐるぐる回そう」
僕は二言で乗った。
そこから「好きを仕事にすると、どうなるか」への疑似体験が始まったのであった。

人を集め、会議が開始された。そこで僕は前述の企画書を提出し、長く壮大な遊びへの行動を開始した。
稚拙ではあるが、論理武装の真似ごともしたし、やる気があったのでスタートダッシュはうまくいった。
しかし時はたち、必要な素材が必要になったころには季節は冬だった。
寒い。ただでさえ寒い。それなのに、全裸にならなければならない。
しかも最初ほどのモティベーションを維持できるにいたらなかった。
最初に書いた「脱ぐべき理由」なんぞすでに忘れ、脱ぐことに嫌気がさしていた。
好きなこともやり続けると飽きるし、強要されるとネガティブな感情しか湧いてこない。
まさに、好きなことを突き詰めると嫌いになるというプロセスを味わったわけである。

ところが、その壁を打ち破るときがきたのだ。
寒い中も必死に脱いでいると、なぜだがテンションが上がってきたのだ。
脳は活性化し、感覚が敏感になった。
そうです。僕は無事に露出狂になったのです。
脱ぐことを続けて半年。得るものが飛躍的にアップした。
まず、身体からのインプットに耳を傾けるようになったのだ。
通常ならば、人間というのは視覚から80%以上の情報を受け取る。
全裸になって外を歩いているときは、触覚が異様に敏感になると同時に、視覚の視野が広くなるのを感じるようになった。
人間は無防備になると些細な音に恐怖感を覚えるし、危険物を踏まないように足元にも普段以上に注意を払わなくてはならない。
それは脳にとっては余計な負荷であるはずなのだが、徐々にそれがインプットの質を高めていることに気付いた。
足の裏は掌のように敏感であることを知ったし、全身から視野角が広がるのを感じた。
脳がその過剰な情報量の処理に慣れるにつれ、衣服を着た状態とのスイッチングが発生することも経験から学んだ。
全裸と着衣の状態では、僕の脳内の活性度は1.3倍は違うと見ていい。
パワー、想像力、テンション、注意力、自信、すべての能力が「脱ぐ」というスイッチによって増強される感覚だ。
そして衣服に対する認識が変わった。今まで衣服が自分にどのような影響を与えるか分かったためだ。
服を着ている状態では、服について造形を深めることはできなかった。
これは服飾を学んでいる学生に是非体験してもらいたいと思う。

このまま衣類のほうに話をずらしてしまうが、ご容赦願いたい。
正確な段落をもって話を進めることが僕にはできないので、思いつくまま筆を進めている。
非常に読みにくい文章であることは重々承知ではあるが、このままお付き合いいただけると幸いだ。

衣類の効果について。
今まで衣類の効果には「身体の保護」「権力の誇示」「組織への帰属」「思想信条」などか考えられてきたが、それだけでは足りていない。
僕はモノには神経が通ると考えていて、カメラを毎日使っているとカメラを扱っている感覚が無くなっていき、自分の体を動かすのとなんら変わらない状態になることを体験している。
このような状態を「神経がモノに延長している」と考えるならば、人は衣服に対して無自覚に神経を延長していると言える。
神経を延長したモノは体の一部となんら変わらないように認知され、人は衣服を自分と一体化させ、そのぶんだけ身体が大きくなっていると認識する。
衣服を脱ぐということは、身体の皮を剥ぐのとなんら変わらないことであり、そのダメージは想像以上である。
そのため衣服を脱いだ人間がその姿を見ると、自分の体が一回り小さくなったように感じる。
それを長い間、断続的に続けていると、衣服に延長されていた神経が切断されるということが起こる。
神経の切断作業を終えると、衣類と身体が別々のものとして明確に区別することができるのだ。
区別できるようになるとどのようなことが起こるか?
“身体の一部であったもの”が自分に与える影響というのは、感知しにくい。
フグが自分の毒で死なないのと同様に、自分の皮膚が自分にどのような影響を与えているかを考えることは非常に困難だからだ。
身体と衣服を区別できるようになって、初めて衣服が自分に与える影響というものが可視化されてくる。
もし、それを既にできる人間がいるとすれば、精神病である。

衣服がもつもう一つの一面。
それは、身体の保護と対立をなすもので、インプットの妨げととらえることができる。
同時にアウトプットの妨げを併発していることも明記しておこう。
それは身体を保護するという機能を有しているモノである限り逃げられない宿命ではあるが、今までそれはあまり考えられてこなかった。
身体から外界へ行き来する情報が衣服によって阻害されていることはもはや否めない。
衣服が発明された当初は、余計な情報(ノイズ)を遮断するにとどまってはいたのだが、歴史とともに神経が衣服に延長され、その問題点が見えにくくなっていた。
文化が発達すればするほど、衣服のデメリットは見えなくなり、もはや時代が進むにつれて衣服と身体を分離することは困難になっていくことは明白である。
この現代において、僕がこれを発見するに至ったのはまったくもっての偶然であるが、次世代へと進む前に発見できた功績は大きい。

好きを仕事にすると、どうなるか。

いいことが、起こる。


ぬーど02




「僕は人が嫌いになることができるんだ」

僕は増沢が嫌いだ。そうだったんだ。
彼は作品を苦しんで作り、僕の作品を苦しくした。
その負のエネルギーが作品につながるかといえば、そうではなく、僕は正のエネルギーでしか作品に投下できない人間だった。

リンカイ展によって僕は変わった。いい意味でも、悪い意味でも。
会議を重ねるにつれ、制作を見るにつれ、周りの価値観(と言えば聞こえはいいが)が僕を激しく攻撃してくるのだ。
これは自分が悪い。自分に多大なる責任が存在しているのだが、他人の考え方、思考パターンが体に染み付いてしまった。
僕は以前より、人を批判するようになった。(肯定の仕方が分からなくなった。良い個所を発見する能力が衰えた)
「良いところを発見するより、悪いところを見た方が成長する」というのは“上の人”が言いそうなことだけれど、僕はそれには反対だ。
たしかにクオリティの底上げにはなるが、頭打ちが見えている。そんなことを繰り返していると、批判逃れの欠点つぶしが作品制作のリソースを大きく奪い、解説には保険を掛けた生ぬるい言葉が並ぶだけだ。
それは長期的な目で見ればマイナスでしかない。

以前の僕を返してくれ。
これによって、僕は人を嫌いになった。

僕は人を嫌いになることができるのか。これは新しい発見だ。
この点については感謝している。

リンカイ展にかかわったみんな、だーっいきらいだ!


「おわりに」

おわりに、も何も言いたいことは言いつくしたので僕はとても気分がいい。
リンカイ展は外側にいても、内側にいても刺激的なものに仕上がったと思う。
メンバーの中では自分が一番楽しめたと思うし、一番成長率が高かった。

でもね、作品は楽しく作るべきだよ。
「それはオナニーだと」という定型文から逃れるために保険をかけるのをやめよう。
自分すら楽しめない作品で、他人を楽しめさせることはできない。
その事実から目を背けるのをやめよう。

好きこそものの上手なれ。
苦しんで作品を作ればクオリティが上がる? じゃあ楽しんでる俺より凄いもの作ってみろよ。

楽しみましょう。

これは、次回への伏線です。


石田祐規   2009年2月8日


ぬーど04



(学校に提出したポートフォリオの文言。原文ママ)
  1. 2009/02/12(木) 22:34:43
  2. | Comment:9
<<19歳の2月12日 | home | いかに自分が慈悲深い人間か身にしみて分かりました。>>

Comment

>まさに、好きなことを突き詰めると嫌いになるというプロセスを味わったわけである。
             ↓
>そうです。僕は無事に露出狂になったのです。

好きなことを突き詰めると性癖に変わる。
しかし、そこで終わったわけじゃない。
まだ性癖の先はある。まだ半年じゃないか。

作品はオナニーで良いんだ。
むしろオナニーで無いといけない。
作品は人に見せるもので、他人を気にすることは大事だけれど、
他人を楽しませる目的のものを苦しんで作るのは妙だ。
自分も楽しい、他人も楽しい。皆楽しい。
そういうのは上手くいかないように見えるけれど、意外と簡単だ。
誰かが笑えば楽しいし、誰かが苦しいと自分も楽しくはなれない。
作品を作る過程で悩んで、あーだこーだ、いや、こうするべきだ、あーするべきだと
様々な意見を出す中でどんどんと当初に思いついた作品のイメージが崩れる。
それどころか当初の発想を忘れて、作品の基盤すら壊れるかもしれない。
唐突にパッと脳裏に浮かんだイメージが、
そのままそっくり具体化された作品を見るってことは僕はほとんど無い。

つまりナニが言いたいかって、ナニだよ。
  1. 2009/02/13(金) 00:09:18 |
  2. URL |
  3. なまざかな #-
  4. [ 編集]

どうしてやなせさんはそんなに自由になることができるのか、羨ましくてしょうがない。
理論武装はアートに服を着せるようなものなのかもしれない。
「コラ!なんで服着てないの!!」って言われないための。
あと写真がエロい。何故か無性にエロい。
このエロさを論理的に説明することは僕には到底できない。
僕も自由になりたい。服を脱がない限り本当の自由は感じられないのか。
  1. 2009/02/13(金) 01:29:39 |
  2. URL |
  3. 信伍 #-
  4. [ 編集]

オナニー:出すだけで満足
セックス:出すことで相手に影響を与える

いくらオナニーに文化的意義を与えたとしても、オナニーはオナニーだよね。
セックスは快感だけど、その結果として大きな責任を負うことになる。
その重圧に耐えて、新しいものを生み出すことが、本当の目的なんじゃないのかな?
  1. 2009/02/13(金) 10:12:41 |
  2. URL |
  3. K-Hyodo #t4gGa3gQ
  4. [ 編集]

今は、裸になろうと思えばなれるし、うつそうとすれば写真や映像にすることができる
被写体になってくれる人もいるし、ある程度の道具もある
そういう環境の中にやなせさんは、いらっしゃる。
そう受け取っておきます
  1. 2009/02/13(金) 11:29:41 |
  2. URL |
  3. 酒茶漬け #-
  4. [ 編集]

この写真を見たときに感じたものを文章に変換したい
できることなら、写真そのものを文章だけで表現したい

写真が良すぎるw
文章はまだ読んでない
  1. 2009/02/13(金) 18:10:17 |
  2. URL |
  3. ym #LIoBLL/6
  4. [ 編集]

写真がいい。
何だろう。狙ってないエロさというか、いやらしくないいやらしさがある。

自由ってのは繊細なんだな。
自己満足でも良いからもっともっと見せてくれ。

このまま突っ走ってくれよ。

ところでこのblog,めちゃくちゃに重いのは俺だけでしょうか。

  1. 2009/02/13(金) 20:38:02 |
  2. URL |
  3. 楼速 #B8Dz5at2
  4. [ 編集]

ちょうど、ちょっとそんなことを考えていた所だったので
こちらへ来て、あーやっぱりやなせさん…と思いました。
私から見ると自由でいい!と思いますが、やなせさんは、
自由とかいう次元ではなさそうですね。
リンカイ展へ行きたかったです。
  1. 2009/02/14(土) 06:40:16 |
  2. URL |
  3. かふあ #tbP3RbY6
  4. [ 編集]

やっぱり女体は素晴らしい、そんな事を教えてくれる記事ですね!

素晴らしい・・・。
  1. 2009/02/14(土) 23:39:35 |
  2. URL |
  3. イン #-
  4. [ 編集]

どうも

あのセクシー女体が気になってですね。
文章は、最初しか読んでないんです。
  1. 2009/02/28(土) 00:53:58 |
  2. URL |
  3. こきこき #-
  4. [ 編集]

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