365日坊主

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おとなもこどもも犯罪者も

作品制作とはなんなのだろうか。劇作家と同じくらい写真家の仕事は分かりにくいので、みな言語化に困っている。というか、身近に写真家が減った気がする。あれか、小林健太・稲葉あみが身近にいないだけでこんな孤独感がすごいものなのか。作品についてもっと知りたい。何をもって作品たらしめるのか。これまでは「ここから」「ここまで」と境界線を定めることが作品行為なのだと思っていた。これからはこの作品の定義をアップデートしていく必要がある。そもそも境界線を引くのがダルいので言ってしまえば作品が無いことが困りごとなので、作品を制作するためには作品の定義を変えなくては自分の場合成立しないので、なんとかzineという形態でもって「はじまり」も「おわり」も内包されたフォーマットを使っていた。そうではなくきちんと人生を人生として取り扱える新概念が必要だ。プリントでも、zineでもない新しい作品を創造しなくてはならない。大仕事のように思えるがまた誰かからパクってくればいい。zineだって、もともとはアメリカのストリートカルチャーのものを写真用に転用しただけのもので2012年当時はそれは一番取り扱いやすく手軽さがよかった。とはいって写真集となると重さがパないので、これはけっこう特別なリリースのためにとっておきたい。

最近、‪増田捺冶‬がアルバムを出すらしい。アルバムという形態は最近気になっている。アルバムは誰の家にもあるものだし、言葉に付随しているイメージもいい。「ドメイン」=(部分)というのも気になっている。「デッキ」=(甲板(かんばん)、(トランプカードの)ひと組、麻薬の小さな包み)概念はとりあえず落ち着いた。当初から話している写真=「デッキ・手札・プレイ」概念はとりあえずお休みさせることにする。「撮影環境・写真・写真作品」というように言い換えることもできるが、とりあえず建築のことを考えるのはまだあとだ。勉強することがたくさんある。マドリンギンズや荒川修作の本をきちんと読まないとそこから先に進まない気がする。写真は美術とも生活ともほどよい距離を保っていたいものだ。

クリーンな世の中になってきた。より写真という犯罪に手を出す人が減っている気がする。もちろん気のせいだ。まだまだ犯罪は機能しているし、法律のせいで自分を制限するつもりもない。だけれど私写真的なものは街で身を潜めた。面白い写真を撮っている人も見えなくなり、私の体自体も鈍重になったのだろう。サマンササマサがいる。だから若い世代の情報はそこに頼ろう。おれは同世代を探す。ネットも信用できなくなり面白い人はネットにいなくなるだろう。そうなったとき頼りになるのは基盤のコミュニティ。それからピュアな人間関係。社会は人と距離を取るように要請している。物理から身体を抜くように、私たちは身体を失わされていく。人権ってなんだと思う?君はどう捉える?と世界が、そして僕が問われている。このチャンスをものにするために、どう行動する。

又吉美輪、又吉啓による「遊びが本になる!風景を集めるワークショップ」が沖縄タイムスと那覇市の広報11月号に掲載され、いよいよ地域が活躍をはじめて来た。私たちのことを無視していた地域が、いよいよ私たちに興味を向けてきた。これは伏線だ。もう地域への私たちの分裂が始まる。そんなとき頼れるのは「近くの他人と、誰」なのか。問われている。走らなくちゃ。それはもっと移動することだったり、距離が遠くても愛を分配する方法だったり、実はこっそり会うことだったり。

好きな人と好きな時に会う。それが犯罪になる未来だって全然ある。これは戦争だ。きっとそうなのだ。だからこれまで以上に……というか初期に戻ったのだ「写真の犯罪性」が。魂は取られやしないが、大切なものが取られるようになる。もっと具体的に。だけれど犯罪を続けよう。イリーガルがリーガルを取り戻すまで。MAKE PHOTO GREAT AGAIN.写真という解像度に耐えられなくなった国民をどうする? 一億総YouTuberになるまで君はほおっておくつもり?
  1. 2020/11/04(水) 17:06:36

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2006年12月14日設置